「僕らの書展2010」が終わり、一週間が経ちました。あっという間の三日間でした。昨年の夏「自分たちの手で展覧会を開こう。」と意気込み、何のプランも無しに会場を予約しました。それから出品者を集め、何度も何度も錬成会や批評会を行い、ようやく、平成22年8月27日~29日に栃木県総合文化センターで「僕らの書展2010」を開催することが出来ました。この展覧会を企画するにあたって、出品者を「栃木県出身で平成生まれ」の若者に限定しようと考えました。無名な若者が、「書が大好き」という気持ちだけでどこまでやれるのか、挑戦したかったのです。集まった九名の出品者はそれぞれ本気で作品制作に取り組み、何とか発表することが出来ました。「僕らの書展2010」で私たちは一層、書に魅了されました。この展覧会を私たち小さな一歩として、これからも研鑽を重ねていきたいと思います。【栃木県総合文化センター,2010】
作品サイズの規定は一切なく、書きたいものを書きたいように書く、初回の2010年展では佐藤達也をリーダーに、本展では伊藤聡美をリーダーとして、平成生まれの十人が集い、隔年で開催する「僕らの書展2012」。
秋元央嗣は「臨争坐位文稿」「今」「不」の3点を出品。顔法に学ぶ筆勢が一字書に生きる。甲乙つけ難い書線の切れ味が若いエネルギーの発露の通じる。
泉諒治も顔真卿に挑戦する「臨祭姪文稿」と共に一字書「楓」を発表。写真版では十分伝えられないが、「楓」の「几」の部分の大輪の花火を想起させる飛沫が効果的。
伊藤聡美は第5回抱一大作書展の中でも強く記憶に刻まれた「沈」、第50回記念抱一書展出品作に連なる「髪」、「狂瀾怒涛」の3点を発表。構成の巧みさが光る三作三様の作風の内に、表現者たる上での核となるもの。それがはっきりと読み取れた。
内野直弥の「臨風信帖」は、写真版では伝えきれないが会場を圧する大作。小品ながらセンスの光る「流」。「山山」は発想のおもしろさが、鍛えられた筆力でさらに生きる。
岡佑樹は、「臨蘭亭序」において、オーソドックスな学書の成果を示すが、金文による一字書「音」「明」においては、作家精神を前面に打ち出している。金文による「音」は独自の表情で観者の視線を捉え、重厚な響きを放つ「明」との好対照を為す。
佐藤達也の「臨寒切帖」に対しては、若くしてここまで王法に肉迫するとは、原典と対比しながらただ感嘆するのみ。
篠崎貴典の一行書「悪中之善」においては濃墨の筆力、「暗中模索」ではにじみの美しさと筆線の切れ味の調和を、「我舞影零乱」(李白詩「月下独酌」より)では淡墨の美しさと真正面から相対する。対幅「望廬山瀑布」(李白詩)では洒脱な対比の妙を、二行書「月下独酌」(李白詩)では行間の白が光る。
德田真奈美の「臨私擬治可議」。壁面の端から端に到る長大なスケールが観る者を圧倒する。膨大な字数を最後まで緊張感を途切らせることなく書ききる集中力も見事だ。二行書「緑雲高幾尺…」(夏目漱石詩)においても、潤渇肥痩の自在な展開の内に、凝縮された集中力を読み取ることができた。
伝西行とされる一連の古筆、中でも「山家心中集」のシャープな筆線のリズムは、昔も今も心が躍る。沼尾希望の「臨中務集」も、そうした伝西行の線質を実によく捉える。「臨関戸本古今集」では、技法の宝庫とも評される関戸のポイントを粘り強い伸びやかな筆線で巧みに掴み取る。
早川燿の「臨黄州寒食詩巻」は、不遇の境遇に置かれても己の信念を毅然と貫く蘇軾の不屈の闘志をよく伝える。淡墨のにじみが効果的なアクセントとなる「可意」(良寛詩)においても、その書線の根幹に蘇軾に学ぶ気骨が読み取れた。
「近頃の若い者は…」との嘆きは、有史以来今日まで絶えることなく受け継がれている。
還暦を過ぎた自分もそうした親父達の一人だが、本展を通して新たな時代の息吹を痛感すると共に、己の浅薄な思い込みを深く恥じる。主観的な思い込みで突進してきた我々団塊の世代に対し、現代の若者にはしなやかな感性の発露が大きな武器になっている。佐藤達也、そして「僕らの書展」の仲間たち…青春とは数多くの試行錯誤、挫折を繰り返す日々でもある。しかし必ず“日はまた昇る”。今後一層の活躍を切に祈る。【書評論家 宗像克元,栃木県総合文化センター,2012】
二年前に「僕らの書展2014をやろう。」と決めた。2010年、2014年と栃木県総合文化センターで開催させていただいたこの展観だが、毎回楽しんで苦しんで書いてきた。「今度は、東京でやりたい。」とひそかに思ってきた。そして何とか、その思いは実現できそうだ。
6月29日午後に出品作品検討会を行った。これまでに書きためた作品、そして、さっきまで書いていてまだ乾いていない作品を、講師としてお招きした柿下木冠先生に通観していただいた。先生は、私たちに「この作品にしなさい。」とは決して仰らない。眼前に出てきた拙作を見ながら、私は、これまで何をしてきたのか、何をやりたいのか、という本質的な問いに答えようとしていたようだ。きっと、他の出品者たちもそうであった。翌日、そうして決まった作品27点を表具店へ持参した。検討会から十日が過ぎ、校務や展覧会準備などに追われているが、なんとなくボーっとしている。疲れているのか、チョットだけ命を燃やしてしまったのか。
大学時代、恩師にいただいた本の中に、こんな一文がある。
真に新しい作品が、現代を生きる冒険の精神から生まれてきたかどうか。
鈴木史楼氏(書道史家)の評論集『現代書の冒険者たち』の「あとがき」の一文である。現代書とよばれる書が萌芽してから約七十年が経ったが、その間、先人たちはさまざまな試み、つまり芸術としての書への果てしなき「冒険」を続けられてきた。私は、平成に生まれ、書を志すことができた。しかし、私たちの書は先人たちの「冒険」の結果に安息しているに過ぎないのではないか、と考えてしまうこともある。おそらく他の出品者も、どうにかして新しい書を、今までに見たことのない作品を、と意気揚々と今回展の作品制作に臨んでいたはずだが、それはそう易くはない。けれども私は、あの一文で救われた気になっている。現代書に取り組む私たちは、やはり、「現代を生き」ているのである。大学の講義に出席したり、就活をしたり、働いたり、遊んだり、恋したり…
必死に今と向き合おうとしている私たちには、「現代を生きる冒険の精神」が少しく内在しているのではないか、と思う。そして、拙くもこの精神に燃えて、今回展の作品制作に没頭できたことは、どうにか「真に新しい作品」への嚆矢となってはいないか、となんとも楽観的に考えている有様である。
もしもいつかまた「僕らの書展」が開催できたら、いやできなくても、どこかでみんなで集まって、青春だね、って言えたら嬉しい。
本当に、ありがとうございました。【東京芸術劇場,2014】
僕らの書展を結成したのは2009年夏。当時大学1年生であった私は、自由な活動の場を求め平成生まれの書を志す若者に声をかけ、2010年の展覧会を目標に研究会を開始した。最年長が19歳の私、最年少が当時高校1年生であった内野君。第1回展は2010年(栃木県総合文化センター・第3ギャラリー)、その後2年に一度のペースで展覧会を開催してきた。2014年夏、東京芸術劇場で第3回展を開催。その栃木巡回展を2014年12月18日~21日に栃木県総合文化センター・第4ギャラリーにて開催した。そのとき私は大学を卒業して栃木県の高校の講師として勤務していた。ほかのメンバーは大学卒業が近づき、結成当時の書への熱は冷めてきているような感じがした。
「こういう作品は日本よりも、ヨーロッパで発表したほうがいいんじゃないか」と栃木巡回展の折にK氏が声をかけてくださった。K氏は書以外の芸術にも詳しく、私と同郷でお世話になっている。確かK氏が指した作品は内野君が右手を負傷していたときに左手で苦戦しながら書いた金文の臨書作品だったと思う。白黒のはっきりとしたいい作品でした。私は単純だから「ああ、ヨーロッパでの展覧会もいいね」と最終日の打ち上げで話した。
私たちは運がいい。ちょうどそのころ、A先生のウィーンでの個展が開催されることを知った。すぐに先生に「ウィーンに一緒に行きたい」と連絡をした。
お世話になっている久我のみなさんにウィーン行が決まったと話す。その中のTさんの娘さんがハノーファー(ドイツ)で通訳として活躍していることを知る。
これで私の初海外旅行、そしてヨーロッパでの僕らの書展に向けての足掛かりができた。
2015年5月28日、伊藤さんと私で日本を発つ。アムステルダム経由でドイツ・ハノーファー着、そこからタクシーでTさんの娘さんのマンションへ向かう。夕食をいただきながら展覧会開催したい旨を伝えるが難しそうな感じ。どうすればいいのか全く分からない。ベルリンではギャラリーを探しては声をかけてみるの繰り返しだが可能性はほぼ無い。31日ベルリン発の寝台列車に乗ってウィーンへ。希望は無いが、寝台列車で見た夕焼けと朝焼けは真赤で元気が出た。6月1日早朝ウィーンに着き、A先生たちと合流。先生の幼なじみのT氏が在オーストリア日本国大使であり、先生の個展が計画されたことを聞く。個展オープニングの折、当時大使館書記官であったI氏に「展覧会やりたいんです」と伝える。I氏は親切にウィーン市内のギャラリーを案内してくれた。後日契約することになるPALAIS PALFFYはそのときダントツでいいなと思った。先生のご好意で、大使館内で書のデモンストレーションをさせてもらった。6月3日ヘトヘトで帰国。
日本でそのことを話した。ウィーンで僕らの書展をやりたいと言ったのは泉君、内野君、岡君、早川君の4人。伊藤さんと私を含めて6人で、今回の僕らの書展2016ウィーン展を準備していくことになった。が、いざ準備をし始めるとどうにもならない。
11月18日、今度は内野君と私で日本を発つ。滞在は19日~21日と短いが打合せ内容は満載。19日朝、I氏に紹介していただいた通訳のエベリンさんとホテルで会う。頼りになるお母さんのような感じ。PALAIS PALFFYでの打合せやデモンストレーション会場の検討など毎日バタバタで、ホテルに戻っても酒飲む間もなく寝る。でも「このウィーンで展覧会やるんだな」とちょっとずつ実感してきたし、具体的にどんな準備をすればいいのかもわかってきた。22日早朝帰国、そのまま抱一会の研究会へ向かう。(手帳を見ながら展覧会までの流れを書いているが、11月の打合せの後、すごく旅してる。11月滋賀京都大阪、翌年2月長野、3月群馬石川静岡神奈川。いろいろと不安なことがあって、じっとしているとそればかり考えてしまうから出掛けていたんだろう。それはそれで楽しかった。)
2016年5月29日、伊藤さんと泉君、内野君でウィーンへ最終打合せに行く。私は恥ずかしながら8月に控えた個展の作品が間に合わず同行できなかった。3人は真剣に打合せをこなし、毎日メールで報告してくれた。WUK、Huma Elevenでのデモンストレーションや展覧会オープニングパーティーや現地プレスの方法などウィーンと日本でメールしながら徐々に決まっていった。日本との時差は8時間なので、夜行性の私もそのときばかりは早起きして個展の作品を書きつつ3人からの連絡を楽しみに待っていた。3人は6月4日に帰国。
書の作品を生み出すのに必要なのはなんだろう。画期的な作品とはなんだろう。新しさとはなんだろう。自由ってなんだろう。栃木、東京と開催してきた僕らの書展の目玉はなんといっても体当たりで取り組んできた超大作。真夏の茹だる暑さの中、体育館で汗ダクダクになりながらでかい筆を振り回す。何度も何度も振り回しているうちに、ドデカイ作品が生み出される。特に東京芸術劇場での僕らの書展2014では全員が超大作に取り組み、若さを前面に押し出した展示をした。そのとき、それで満足しちゃった。「じゃあウィーンでは何を発表するの」となるわけだ。会場のPALAIS PALFFYはウィーン市内のギャラリーとしてはとても大きいが、超大作を発表するには小さい。なによりも私たち6人の中に「いつまでも超大作だけでいいのか」という思いもあったのかもしれない。若さを前面に押し出せる超大作という強みを無くした私たちになにが作れるのだろう。ウィーン展に向けての錬成会ではみんな迷いながら筆を執っていた。超大作を得意とする泉君と内野君は特に辛そうだった。
2016年6月15日から2泊3日で、急遽、錬成会を行った。もう一度作品を書きたい。普段は和気藹々とやっている錬成会だが、そのときはほとんど無言で書いていたように思う。なんとかひとり1点は仕上げた。
泉 「霊」 明るさ、ゆったり感
伊藤「濤」 執念を感じる
内野「巖」 スケール超大
岡 「ケモノミチ」 今の自分
早川「初」 真面目な感じ
佐藤「河」 白は白、黒は黒
7月13日に表具をお願いしに上京。一応の決着はついた。
書の技術も乏しく、理念も皆無。ただガムシャラにやっているだけの私たちにとっては作品がすべて。作品が良ければ胸張っていられることは経験している。ウィーンの街の中に溶け込むような作品を書きたいと、私は思っていた。
9月14日、柿下先生のお稽古に伺う。その後、A先生も合流し6人の壮行会をしていただく。浜松町のホテルに泊まり、翌15日朝5時に羽田に向かう。表具の湯山さんのご好意で内野君と私は作品とともに羽田空港まで運んでいただく。ひとり1つのキャリーバックの他、大きな段ボール箱4つと作品の入った長い筒2つ。教え子のK君も手伝ってくれる。あいにくの雨で不安になる。羽田に着いてチェックインするが、トラブル発生。ロンドン経由でウィーンに向かう予定だったが、ロンドン-ウィーンのフライトがストライキのため欠航。どうしようもなく苛立ちながら、ミュンヘン着の振替便を選ぶ。エベリンさんに電話をかけてトラブルを説明すると、ミュンヘンからバスでウィーンへ入る手配をしてくれる。なんとかなるかと思いながら9時に出発。15時間後、18時ごろにミュンヘンに着く。私はバスを探しに先にゲートを出るが、5人はなかなか出てこない。荷物が怪しいので調べられていた。機転を利かせてスマホの写真を見せながら説明してゲートから出た。チャーターしたバスは真っ暗闇のアウトバーンを猛スピードで走行していて怖かった。ウィーンに到着したのは9月16日深夜2時過ぎ。滞在するアパートの前でエベリンさんが待っていてくれてほっとした。眠くて仕方なかったが、日本人学校での講座とWUKデモンストレーションの準備をする。
日本人学校での講座。漢字の成り立ちを説明した上で、子どもたちの前で私が甲骨文を素材とした作品を5点揮毫。揮毫後にはサインを求められ嬉しかった。
WUKでのデモンストレーションは2日連続で行う。初日は伊藤さんと私が書く。翌日は男5人で書く。超大作を濃墨で揮毫。大作用筆を3本、墨液2ℓを3本、ロール厚紙1,4×50mを2本持参。墨まみれになりながらデモンストレーションをやった。余分な墨を取る吸取紙が人気で「作品よりもそっちか」と落ち込んだ。
Huma Elevenでのデモンストレーションは展覧会搬入前日だったので、伊藤さん、泉君、岡君、早川君が行う。辛い思いをしたらしい。内野君と私はアパートで搬入の準備していた。
9月20日14時から搬入展示。18時からオープニングパーティー。70名近い参加者でほっとする。PALAIS PALFFYのオーナーから「作品がおもしろい、開催おめでとう」、大使館のI氏も駆けつけてくださり「日本文化をウィーンで紹介する機会は少ないのでありがたい、成功を祈ります」との言葉をいただいた。日本酒大好評。伊藤「虹立ちて…」、内野「雨」、佐藤「猫」を席上揮毫。パーティー終了は22時過ぎ、そのあと6人で飲んだビールは美味かった。展覧会会期は21日~28日。
Q 東洋人は漢字の成り立ちを理解した上で、漢字の形をみるが西洋人はその理解が出来ていないので作品は理解しにくい。(君たちの作品を)現代アートとしてみるとよくみえる。どのように鑑賞したらいいのか。
A 漢字の原点は絵画のようなものなので、原点に立ち返ってみれば山や川の姿はそこまで違いはないのではないか。現代アートとしてみてくれるのはうれしい。
というやりとりがあった。26日の日記(個人的に記録のため日記をつけていた)に書いてある。その下に私が、
漢字というものにしばられて書表現をする私たちと漢字が理解できないという外国人 やはり表現方法が弱いのか 漢字の読める読めないにとらわれない書表現は象書ということになるかもしれない(手島先生の言う通りになるのかも) インパクトのある主張性のあるひとつドカーンとしたなにかがほしい 空間性とかそういうところではない世界をも求めるときが来ているのかもしれない
と書いている。よく分からないし、書がなんなのかもよく分かっていない。でもなぜか重要な感じがしたから記録に留めているのだろう。もう忘れた。
27日夜(出国前夜)、通訳のエベリンさんと打ち上げをした。アパートに戻り、酔っぱらったまま日記を書いた。
海外展から日本へ戻る
さびしさとまだしっかり自分の中で整理されていないさまざまなおもいがある。その中には間違いなくこれからの自分、書の指針となるものがあるはずだ!忘れないうちに早く書き留めておきたいがいまは疲れているのでできそうにない。ただ自分がこれまでやってきたことを実験として海外で発表したときに、自分の中の疑問や迷っていることが日本よりもストレートにみる側へ伝わり質問される、そのことはとても胸が痛い。ごまかしがきかない。文字をどのような形であつかうにしても、キャプションとしてそれを提示したときにみる側はそれにしばられるので、キャプションが無くてもそのものと伝わるようでなければいけない?いやそんなことじゃなくて単に視覚的におもしろいのがいいのか?それらのハザマの仕事をこれから先も続けていけばいいのか?なんともよく分からない気持ちで明日帰国することになる。
結局、なにもわからないまま日本に戻った。なにしてんだろう、ウィーンでやった意味あったのかな、と思う。
帰国してから私は忙しくやっている。これを書くのに3年分の手帳を引っ張り出し、ウィーン展関係の書類の入った封筒を探し出した。それらを読んでいくと、本当に真剣にやっていたなと思う。でもただやっただけでは意味がない。これから先、なにも掴めなかったら楽しい思い出になるだけでしかない。【PALAIS PALFFY,WIEN,2016】
2014.12ヨーロッパでの僕らの書展の開催を考えるようになる
2015.3.25-27僕らの書展錬成会(ニューサンピア栃木)
2015.5.28-6.2ドイツ(ハノーファー、ベルリン)からウィーンへ、伊藤と佐藤が外遊 ウィーン展の会場PALAIS PALFFYを決定する
2015.6.16-18僕らの書展錬成会(ニューサンピア栃木)
2015.8.10-12僕らの書展錬成会(ニューサンピア栃木)
2015.11.18-21内野と佐藤でウィーン展打合せのためウィーン滞在
2015.12.4-6僕らの書展錬成会(かご岩温泉旅館)
2016.2.27ウィーン展用リーフレットを印象社へ依頼
2016.3.23-25僕らの書展錬成会(ニューサンピア栃木)
2016.5.14-15僕らの書展錬成会(かご岩温泉旅館)
2016.5.29-6.3泉、伊藤、内野で最終打合せのためウィーン滞在、リーフレットを配布しはじめる
2016.6.15-17僕らの書展錬成会(かご岩温泉旅館)
2016.7.13湯山春峰堂へ作品持参、表具を依頼する
2016.8.25柿下先生より銀座アートホールでの帰国展開催が決まったとFAXが届く
2016.8.26出品者全員でウィーン展最終打合せ(鹿沼市まちなか交流プラザ)
2016.8.27帰国展で映像を公開したいとgeidaiRAMの田中沙季さんに連絡、取り計らってくれるとのこと
2016.9.1柿下先生より励ましの手紙が届く
2016.9.14稽古後、浜松町で壮行会をしてもらう、浜松町のホテルに泊まる、内野は深夜まで湯山春峰堂にて大督さんと打合せ
2016.9.15全員で出国
2016.9.16ウィーン日本人学校での講座、WUKでのデモンストレーション(1日目)
2016.9.17WUKでのデモンストレーション(2日目)
2016.9.18色紙を揮毫、現地でお世話になった方々へプレゼント
2016.9.19 HumaElevenでのデモンストレーション
2016.9.20搬入展示14:00-17:00、オープニング18:00-21:00
2016.9.21-28 BOKURA NO SHO-TEN,2016
2016.9.22竹澤君、前田君と夕食会
2016.9.24ウィーン楽友協会にてコンサートを鑑賞
2016.9.27通訳のエベリンさんと夕食会
2016.9.28伊藤、佐藤、早川は先に帰国 泉、内野、岡は夕方搬出
2016.9.29泉、内野、岡帰国
2016.11.25第1回本冊子編集会議 青柳菜摘さん、田中さんと映像の打合せ
2016.12.10帰国展用ポスターとDM完成
2016.12.17-18僕らの書展錬成会(かご岩温泉旅館)
2017.1.22第2回本冊子編集会議
2017.1.23ウィーンの音をテーマにした新作を湯山春峰堂へ持参、表具依頼
2017.2.12第3回本冊子編集会議、原稿入稿、
映像「BOKURANOSHOTENINWIEN2016」完成
2017.3.6-12僕らの書展 帰国展 ~ウィーンの音~【銀座アートホール,2017】
「僕らの書展2018」(11月7日〜11日、東京・月島のTEMPORARYCONTEMPORARY)は、書の未来を考えるための、実にさまざまな問題を含んでいた。
・・・・・・果たして書は進展し続けているであろうか。いま、作品の類型化は更に進み、書き手の表現に対する意欲は減退と、小さくまとまった身内的循環内で完結している(と思い込んでいる)。
「第三者の目にさらされよう」、なにをいわれたっていいじゃないか。うけとめてやる。僕らの強みはなんだろう。僕らに足りないものはなんだろう。それを明らかにするためにこの展覧会を開催する。
案内に記された言葉だ。そして、書展が終わってとても折り目正しく、丁寧なお礼状をいただいた。
それぞれが本気で向き合えた展覧会であったとは思いますが、個々人の作品コンセプトをもっと鮮明に打ち出していかなければならないと思っています。素材然り、技術然り、表現然りです。
出品者一同が現在、終了した書展をどのように受け止めているのか、私は知りたい。
今回展は書を多角的に捉えたいという問題意識があった。髙橋利郎さん、栗本高行さん、青柳貴史さんを招いた対談・講演を企画したのは、人選やテーマの立て方を含めて、書を広い文脈の中で考え直してみたいという狙いが、ひしひしと感じられる。
会場が貸しギャラリー、それも銀座や青山ではなく、月島が選ばれていた。現代美術を扱う空間を必要としたのだろうか。佐藤達也さんは「月島を再起の場所としてやろうと思った。四方田犬彦『月島物語』や三島由紀夫『幸福号出帆』などは読んだ」と出品目録に記している。この「など」とあるのも、妄想をかきたてる。
「僕らの書展」はこれまで、2010(栃木県総合文化センター)→2012(同)、2014(池袋・東京芸術劇場)→2014in栃木(栃木県総合文化センター)→2016 in Wien(オーストリア・ウィーンPALAIS PALFFY)→2016帰国展(銀座アートホール)と海外にまで活動拠点をのばし歴史を刻んできた。参加者も栃木県出身者だけでなく、広がっている。この意欲的加速度的な展開は立派としか言いようがない。
展覧会芸術として「書」を考えるとすれば書展会場の選択はとても大切になるだろう。作品の大きさや一体誰に見てもらいたいのかという根本的な問いが突き付けられる。表具や紙も工夫が必要となる。
出品者6人がすべて20代。輝かしい人生へと歩みを進めたばかりと言いたいところだが「人生は短い」。今この時を、全速力で疾走してほしいと祈るような気持ちだ。
最初に「素材」。出品目録に創作意図を含んだ紹介をしているのがいい。独立書人団に属していて柿下木冠さんに指導を受けているからだろうか、一字書が大半を占めた。素材をどのように選ぶのかというのは、創作の肝と言えるだろう。赤羽根義貴さん「静」、内野直弥さん「北」、「二」、小久保充基さん「女」、「山」、「足」、佐藤達也さん「舟」、「風」、増田桃子さん「波」、伊藤聡美さん「紫」だ。自らの願いや目標を込めたり、心に留まった情景を再現させたり、といった意図が伝わってくる。抽象的な意味合いを画数の少ない文字で表現するのは、なかなか大変なことだ。チャレンジ精神を評価するが、もう少し複雑な意味合いを込めたいと考えるか、評価は分かれるだろう。
内野さん「こざとへん」(かたっぼだけ書いてみました)、佐藤さん「月白」(言い得て妙で、ことばの美しさにも惹かれた)、増田さん「なみ」(ゆらゆらゆれる、みんながゆれて、自分がゆれて)、伊藤さん「夢かしらいやそうぢやないこんなにも君にしっかり抱かれてゐるんだ」(若くして亡くなった女性、大槻松枝さんの歌)などは、情感や知的な操作が見て取れる。初々しい。
が、全体的に言えば、二十代の書人としては、優等生的というか、燃え盛る情念を感じさせる素材が少ないように感じられた。
「『万葉集』や『古今和歌集』を書いていれば評価されるのかしら。弟子が新しい時代の言葉を書いてきた時に指導するのは苦労するのよ。でも・・・・・・」と、ある書人が一昔前にぼやいていた光景が忘れられない。
現代の散文、詩、短歌、俳句が縁遠い存在になっている状況は分かっている。が、ぜひ言葉を捜す旅に出てほしい。書は造形面だけでなく、言葉の意味内容を伝える機能を持っているからだ。自らが感銘、共感しない言葉を採り上げて、他者が何かを感じたり、作品の前に立ち止まらせるのは、かなり難しいのではないか。
次に「技術」と「表現」。墨色への関心の高さは美点だと思われる。ただ、書は線で勝負という雰囲気が、少し希薄なようにも感じられた。運筆、そして線の抑揚の探求が直近の課題と言えるかもしれない。
過度なデフォルメや出鱈目の冒険心は不要だろう。が、へそ曲がりな私としては、予定調和的な作品、殊に硬直的な精神の態度は、やはり、本当につまらない。
2010年展の感想が「今日の学書」2010年1月号に掲載されている。
何度も破れ、何枚も筆が紙が食い込まずに失敗した。唯一、他の「内」と違った線で、グイグイと筆が紙に食い込んだのが、出品した「内」である。初めて「出来た」と思った。私は先生方や仲問たちの「内」にいる。守られている。いつか、その囲いを破り、外に出たいものだ。(佐藤達也さん)
書を志し、今年の春、書道科のある大学に入学しました。先生に師事し、本格的に書を学ぶにつれて、自分の無知さ、力の無さを実感しました。(中略)しかし、私の胸中には、これからもずっと書に向かっていくという覚悟が生まれました。(伊藤聡美さん)
こんな言葉に触れ、これまでの図録に収められている一人ひとりの真っ直ぐなまなざしや熱のこもった創作風景の写真を眺めると、「僕らの書展」の歩みに強い感興がわきあがってくる。
小賢しくまとまってほしくはない。もっと感情の赴くまま暴れて、見たことがないような世界に挑んでほしい。他ならない自分たちで企画した書展なのだから。冒頭に掲げた、「僕ら」の時代認識は当たっていると私にも思われる。
蛇足が大好きなので、駄文を連ねていた時に心を占めていたことを記す。
「初心忘るべからず」。純粋な気持ち、志を大切にしたいと解されている。一昔も前、劇作家の山崎正一さんの解釈に驚愕した。
この言葉は自分が物事を始めた時にいかに駄日だったかを記憶しようという芸道の厳しさを言っている、と。この世阿弥の言葉は、甘っちょろい私自身に不断の反省を求める。大切にしている。【毎日新聞社記者 桐山正寿, Temporary Contemporary 月島,2018】
※展覧会の詳細や写真につきましてはPC版に掲載してあります。そちらもご覧ください。