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「僕らの書展2018」(11月7日〜11日、東京・月島のTEMPORARYCONTEMPORARY)は、書の未来を考えるための、実にさまざまな問題を含んでいた。

 

 ・・・・・・果たして書は進展し続けているであろうか。いま、作品の類型化は更に進み、書き手の表現に対する意欲は減退と、小さくまとまった身内的循環内で完結している(と思い込んでいる)。

 「第三者の目にさらされよう」、なにをいわれたっていいじゃないか。うけとめてやる。僕らの強みはなんだろう。僕らに足りないものはなんだろう。それを明らかにするためにこの展覧会を開催する。

 

 案内に記された言葉だ。そして、書展が終わってとても折り目正しく、丁寧なお礼状をいただいた。

 

 それぞれが本気で向き合えた展覧会であったとは思いますが、個々人の作品コンセプトをもっと鮮明に打ち出していかなければならないと思っています。素材然り、技術然り、表現然りです。

 

 出品者一同が現在、終了した書展をどのように受け止めているのか、私は知りたい。

 

 今回展は書を多角的に捉えたいという問題意識があった。髙橋利郎さん、栗本高行さん、青柳貴史さんを招いた対談・講演を企画したのは、人選やテーマの立て方を含めて、書を広い文脈の中で考え直してみたいという狙いが、ひしひしと感じられる。

会場が貸しギャラリー、それも銀座や青山ではなく、月島が選ばれていた。現代美術を扱う空間を必要としたのだろうか。佐藤達也さんは「月島を再起の場所としてやろうと思った。四方田犬彦『月島物語』や三島由紀夫『幸福号出帆』などは読んだ」と出品目録に記している。この「など」とあるのも、妄想をかきたてる。

 「僕らの書展」はこれまで、2010(栃木県総合文化センター)→2012(同)、2014(池袋・東京芸術劇場)→2014in栃木(栃木県総合文化センター)→2016 in Wien(オーストリア・ウィーンPALAIS PALFFY)→2016帰国展(銀座アートホール)と海外にまで活動拠点をのばし歴史を刻んできた。参加者も栃木県出身者だけでなく、広がっている。この意欲的加速度的な展開は立派としか言いようがない。

 展覧会芸術として「書」を考えるとすれば書展会場の選択はとても大切になるだろう。作品の大きさや一体誰に見てもらいたいのかという根本的な問いが突き付けられる。表具や紙も工夫が必要となる。

 出品者6人がすべて20代。輝かしい人生へと歩みを進めたばかりと言いたいところだが「人生は短い」。今この時を、全速力で疾走してほしいと祈るような気持ちだ。

最初に「素材」。出品目録に創作意図を含んだ紹介をしているのがいい。独立書人団に属していて柿下木冠さんに指導を受けているからだろうか、一字書が大半を占めた。素材をどのように選ぶのかというのは、創作の肝と言えるだろう。赤羽根義貴さん「静」、内野直弥さん「北」、「二」、小久保充基さん「女」、「山」、「足」、佐藤達也さん「舟」、「風」、増田桃子さん「波」、伊藤聡美さん「紫」だ。自らの願いや目標を込めたり、心に留まった情景を再現させたり、といった意図が伝わってくる。抽象的な意味合いを画数の少ない文字で表現するのは、なかなか大変なことだ。チャレンジ精神を評価するが、もう少し複雑な意味合いを込めたいと考えるか、評価は分かれるだろう。

 内野さん「こざとへん」(かたっぼだけ書いてみました)、佐藤さん「月白」(言い得て妙で、ことばの美しさにも惹かれた)、増田さん「なみ」(ゆらゆらゆれる、みんながゆれて、自分がゆれて)、伊藤さん「夢かしらいやそうぢやないこんなにも君にしっかり抱かれてゐるんだ」(若くして亡くなった女性、大槻松枝さんの歌)などは、情感や知的な操作が見て取れる。初々しい。

 が、全体的に言えば、二十代の書人としては、優等生的というか、燃え盛る情念を感じさせる素材が少ないように感じられた。

 「『万葉集』や『古今和歌集』を書いていれば評価されるのかしら。弟子が新しい時代の言葉を書いてきた時に指導するのは苦労するのよ。でも・・・・・・」と、ある書人が一昔前にぼやいていた光景が忘れられない。

 現代の散文、詩、短歌、俳句が縁遠い存在になっている状況は分かっている。が、ぜひ言葉を捜す旅に出てほしい。書は造形面だけでなく、言葉の意味内容を伝える機能を持っているからだ。自らが感銘、共感しない言葉を採り上げて、他者が何かを感じたり、作品の前に立ち止まらせるのは、かなり難しいのではないか。

 次に「技術」と「表現」。墨色への関心の高さは美点だと思われる。ただ、書は線で勝負という雰囲気が、少し希薄なようにも感じられた。運筆、そして線の抑揚の探求が直近の課題と言えるかもしれない。

 過度なデフォルメや出鱈目の冒険心は不要だろう。が、へそ曲がりな私としては、予定調和的な作品、殊に硬直的な精神の態度は、やはり、本当につまらない。

 

 2010年展の感想が「今日の学書」2010年1月号に掲載されている。

 

 何度も破れ、何枚も筆が紙が食い込まずに失敗した。唯一、他の「内」と違った線で、グイグイと筆が紙に食い込んだのが、出品した「内」である。初めて「出来た」と思った。私は先生方や仲問たちの「内」にいる。守られている。いつか、その囲いを破り、外に出たいものだ。(佐藤達也さん)

 

 書を志し、今年の春、書道科のある大学に入学しました。先生に師事し、本格的に書を学ぶにつれて、自分の無知さ、力の無さを実感しました。(中略)しかし、私の胸中には、これからもずっと書に向かっていくという覚悟が生まれました。(伊藤聡美さん)

 

 こんな言葉に触れ、これまでの図録に収められている一人ひとりの真っ直ぐなまなざしや熱のこもった創作風景の写真を眺めると、「僕らの書展」の歩みに強い感興がわきあがってくる。

 小賢しくまとまってほしくはない。もっと感情の赴くまま暴れて、見たことがないような世界に挑んでほしい。他ならない自分たちで企画した書展なのだから。冒頭に掲げた、「僕ら」の時代認識は当たっていると私にも思われる。

 蛇足が大好きなので、駄文を連ねていた時に心を占めていたことを記す。

 「初心忘るべからず」。純粋な気持ち、志を大切にしたいと解されている。一昔も前、劇作家の山崎正一さんの解釈に驚愕した。

 この言葉は自分が物事を始めた時にいかに駄日だったかを記憶しようという芸道の厳しさを言っている、と。この世阿弥の言葉は、甘っちょろい私自身に不断の反省を求める。大切にしている。

​毎日新聞記者 桐山正寿

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