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 僕らの書展を結成したのは2009年夏。当時大学1年生であった私は、自由な活動の場を求め平成生まれの書を志す若者に声をかけ、2010年の展覧会を目標に研究会を開始した。最年長が19歳の私、最年少が当時高校1年生であった内野君。第1回展は2010年(栃木県総合文化センター・第3ギャラリー)、その後2年に一度のペースで展覧会を開催してきた。2014年夏、東京芸術劇場で第3回展を開催。その栃木巡回展を2014年12月18日~21日に栃木県総合文化センター・第4ギャラリーにて開催した。そのとき私は大学を卒業して栃木県の高校の講師として勤務していた。ほかのメンバーは大学卒業が近づき、結成当時の書への熱は冷めてきているような感じがした。

 

「こういう作品は日本よりも、ヨーロッパで発表したほうがいいんじゃないか」と栃木巡回展の折にK氏が声をかけてくださった。K氏は書以外の芸術にも詳しく、私と同郷でお世話になっている。確かK氏が指した作品は内野君が右手を負傷していたときに左手で苦戦しながら書いた金文の臨書作品だったと思う。白黒のはっきりとしたいい作品でした。私は単純だから「ああ、ヨーロッパでの展覧会もいいね」と最終日の打ち上げで話した。

私たちは運がいい。ちょうどそのころ、A先生のウィーンでの個展が開催されることを知った。すぐに先生に「ウィーンに一緒に行きたい」と連絡をした。

お世話になっている久我のみなさんにウィーン行が決まったと話す。その中のTさんの娘さんがハノーファー(ドイツ)で通訳として活躍していることを知る。

これで私の初海外旅行、そしてヨーロッパでの僕らの書展に向けての足掛かりができた。

2015年5月28日、伊藤さんと私で日本を発つ。アムステルダム経由でドイツ・ハノーファー着、そこからタクシーでTさんの娘さんのマンションへ向かう。夕食をいただきながら展覧会開催したい旨を伝えるが難しそうな感じ。どうすればいいのか全く分からない。ベルリンではギャラリーを探しては声をかけてみるの繰り返しだが可能性はほぼ無い。31日ベルリン発の寝台列車に乗ってウィーンへ。希望は無いが、寝台列車で見た夕焼けと朝焼けは真赤で元気が出た。6月1日早朝ウィーンに着き、A先生たちと合流。先生の幼なじみのT氏が在オーストリア日本国大使であり、先生の個展が計画されたことを聞く。個展オープニングの折、当時大使館書記官であったI氏に「展覧会やりたいんです」と伝える。I氏は親切にウィーン市内のギャラリーを案内してくれた。後日契約することになるPALAIS PALFFYはそのときダントツでいいなと思った。先生のご好意で、大使館内で書のデモンストレーションをさせてもらった。6月3日ヘトヘトで帰国。

日本でそのことを話した。ウィーンで僕らの書展をやりたいと言ったのは泉君、内野君、岡君、早川君の4人。伊藤さんと私を含めて6人で、今回の僕らの書展2016ウィーン展を準備していくことになった。が、いざ準備をし始めるとどうにもならない。

11月18日、今度は内野君と私で日本を発つ。滞在は19日~21日と短いが打合せ内容は満載。19日朝、I氏に紹介していただいた通訳のエベリンさんとホテルで会う。頼りになるお母さんのような感じ。PALAIS PALFFYでの打合せやデモンストレーション会場の検討など毎日バタバタで、ホテルに戻っても酒飲む間もなく寝る。でも「このウィーンで展覧会やるんだな」とちょっとずつ実感してきたし、具体的にどんな準備をすればいいのかもわかってきた。22日早朝帰国、そのまま抱一会の研究会へ向かう。(手帳を見ながら展覧会までの流れを書いているが、11月の打合せの後、すごく旅してる。11月滋賀京都大阪、翌年2月長野、3月群馬石川静岡神奈川。いろいろと不安なことがあって、じっとしているとそればかり考えてしまうから出掛けていたんだろう。それはそれで楽しかった。)

2016年5月29日、伊藤さんと泉君、内野君でウィーンへ最終打合せに行く。私は恥ずかしながら8月に控えた個展の作品が間に合わず同行できなかった。3人は真剣に打合せをこなし、毎日メールで報告してくれた。WUK、Huma Elevenでのデモンストレーションや展覧会オープニングパーティーや現地プレスの方法などウィーンと日本でメールしながら徐々に決まっていった。日本との時差は8時間なので、夜行性の私もそのときばかりは早起きして個展の作品を書きつつ3人からの連絡を楽しみに待っていた。3人は6月4日に帰国。

 

書の作品を生み出すのに必要なのはなんだろう。画期的な作品とはなんだろう。新しさとはなんだろう。自由ってなんだろう。栃木、東京と開催してきた僕らの書展の目玉はなんといっても体当たりで取り組んできた超大作。真夏の茹だる暑さの中、体育館で汗ダクダクになりながらでかい筆を振り回す。何度も何度も振り回しているうちに、ドデカイ作品が生み出される。特に東京芸術劇場での僕らの書展2014では全員が超大作に取り組み、若さを前面に押し出した展示をした。そのとき、それで満足しちゃった。「じゃあウィーンでは何を発表するの」となるわけだ。会場のPALAIS PALFFYはウィーン市内のギャラリーとしてはとても大きいが、超大作を発表するには小さい。なによりも私たち6人の中に「いつまでも超大作だけでいいのか」という思いもあったのかもしれない。若さを前面に押し出せる超大作という強みを無くした私たちになにが作れるのだろう。ウィーン展に向けての錬成会ではみんな迷いながら筆を執っていた。超大作を得意とする泉君と内野君は特に辛そうだった。

2016年6月15日から2泊3日で、急遽、錬成会を行った。もう一度作品を書きたい。普段は和気藹々とやっている錬成会だが、そのときはほとんど無言で書いていたように思う。なんとかひとり1点は仕上げた。

泉 「霊」 明るさ、ゆったり感

伊藤「濤」 執念を感じる

内野「巖」 スケール超大

岡 「ケモノミチ」 今の自分

早川「初」 真面目な感じ

佐藤「河」 白は白、黒は黒

7月13日に表具をお願いしに上京。一応の決着はついた。

書の技術も乏しく、理念も皆無。ただガムシャラにやっているだけの私たちにとっては作品がすべて。作品が良ければ胸張っていられることは経験している。ウィーンの街の中に溶け込むような作品を書きたいと、私は思っていた。

 

 9月14日、柿下先生のお稽古に伺う。その後、A先生も合流し6人の壮行会をしていただく。浜松町のホテルに泊まり、翌15日朝5時に羽田に向かう。表具の湯山さんのご好意で内野君と私は作品とともに羽田空港まで運んでいただく。ひとり1つのキャリーバックの他、大きな段ボール箱4つと作品の入った長い筒2つ。教え子のK君も手伝ってくれる。あいにくの雨で不安になる。羽田に着いてチェックインするが、トラブル発生。ロンドン経由でウィーンに向かう予定だったが、ロンドン-ウィーンのフライトがストライキのため欠航。どうしようもなく苛立ちながら、ミュンヘン着の振替便を選ぶ。エベリンさんに電話をかけてトラブルを説明すると、ミュンヘンからバスでウィーンへ入る手配をしてくれる。なんとかなるかと思いながら9時に出発。15時間後、18時ごろにミュンヘンに着く。私はバスを探しに先にゲートを出るが、5人はなかなか出てこない。荷物が怪しいので調べられていた。機転を利かせてスマホの写真を見せながら説明してゲートから出た。チャーターしたバスは真っ暗闇のアウトバーンを猛スピードで走行していて怖かった。ウィーンに到着したのは9月16日深夜2時過ぎ。滞在するアパートの前でエベリンさんが待っていてくれてほっとした。眠くて仕方なかったが、日本人学校での講座とWUKデモンストレーションの準備をする。

 日本人学校での講座。漢字の成り立ちを説明した上で、子どもたちの前で私が甲骨文を素材とした作品を5点揮毫。揮毫後にはサインを求められ嬉しかった。

 WUKでのデモンストレーションは2日連続で行う。初日は伊藤さんと私が書く。翌日は男5人で書く。超大作を濃墨で揮毫。大作用筆を3本、墨液2ℓを3本、ロール厚紙1,4×50mを2本持参。墨まみれになりながらデモンストレーションをやった。余分な墨を取る吸取紙が人気で「作品よりもそっちか」と落ち込んだ。

 Huma Elevenでのデモンストレーションは展覧会搬入前日だったので、伊藤さん、泉君、岡君、早川君が行う。辛い思いをしたらしい。内野君と私はアパートで搬入の準備していた。

 9月20日14時から搬入展示。18時からオープニングパーティー。70名近い参加者でほっとする。PALAIS PALFFYのオーナーから「作品がおもしろい、開催おめでとう」、大使館のI氏も駆けつけてくださり「日本文化をウィーンで紹介する機会は少ないのでありがたい、成功を祈ります」との言葉をいただいた。日本酒大好評。伊藤「虹立ちて…」、内野「雨」、佐藤「猫」を席上揮毫。パーティー終了は22時過ぎ、そのあと6人で飲んだビールは美味かった。展覧会会期は21日~28日。

 

Q 東洋人は漢字の成り立ちを理解した上で、漢字の形をみるが西洋人はその理解が出来ていないので作品は理解しにくい。(君たちの作品を)現代アートとしてみるとよくみえる。どのように鑑賞したらいいのか。

A 漢字の原点は絵画のようなものなので、原点に立ち返ってみれば山や川の姿はそこまで違いはないのではないか。現代アートとしてみてくれるのはうれしい。

というやりとりがあった。26日の日記(個人的に記録のため日記をつけていた)に書いてある。その下に私が、

   漢字というものにしばられて書表現をする私たちと漢字が理解できないという外国人 やはり表現方法が弱いのか 漢字の読める読めないにとらわれない書表現は象書ということになるかもしれない(手島先生の言う通りになるのかも) インパクトのある主張性のあるひとつドカーンとしたなにかがほしい 空間性とかそういうところではない世界をも求めるときが来ているのかもしれない

と書いている。よく分からないし、書がなんなのかもよく分かっていない。でもなぜか重要な感じがしたから記録に留めているのだろう。もう忘れた。

 27日夜(出国前夜)、通訳のエベリンさんと打ち上げをした。アパートに戻り、酔っぱらったまま日記を書いた。

   海外展から日本へ戻る

さびしさとまだしっかり自分の中で整理されていないさまざまなおもいがある。その中には間違いなくこれからの自分、書の指針となるものがあるはずだ!忘れないうちに早く書き留めておきたいがいまは疲れているのでできそうにない。ただ自分がこれまでやってきたことを実験として海外で発表したときに、自分の中の疑問や迷っていることが日本よりもストレートにみる側へ伝わり質問される、そのことはとても胸が痛い。ごまかしがきかない。文字をどのような形であつかうにしても、キャプションとしてそれを提示したときにみる側はそれにしばられるので、キャプションが無くてもそのものと伝わるようでなければいけない?いやそんなことじゃなくて単に視覚的におもしろいのがいいのか?それらのハザマの仕事をこれから先も続けていけばいいのか?なんともよく分からない気持ちで明日帰国することになる。

 

結局、なにもわからないまま日本に戻った。なにしてんだろう、ウィーンでやった意味あったのかな、と思う。

帰国してから私は忙しくやっている。これを書くのに3年分の手帳を引っ張り出し、ウィーン展関係の書類の入った封筒を探し出した。それらを読んでいくと、本当に真剣にやっていたなと思う。でもただやっただけでは意味がない。これから先、なにも掴めなかったら楽しい思い出になるだけでしかない。

佐藤達也

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