秋元央嗣
Akimoto Hisashi
泉諒治
Izumi Ryoji
伊藤 聡美
Ito Satomi
内野 直弥
Uchino Naoya
岡佑樹
Oka Yuki
佐藤 達也
Sato Tatsuya
篠崎貴典
Shinozaki Takannori
德田真奈美
Tokuda Manami
沼尾希望
NUmao Kibo
早川 燿
Hayakawa Hikaru
作品サイズの規定は一切なく、書きたいものを書きたいように書く、初回の2010年展では佐藤達也をリーダーに、本展では伊藤聡美をリーダーとして、平成生まれの十人が集い、隔年で開催する「僕らの書展2012」。
秋元央嗣は「臨争坐位文稿」「今」「不」の3点を出品。顔法に学ぶ筆勢が一字書に生きる。甲乙つけ難い書線の切れ味が若いエネルギーの発露の通じる。
泉諒治も顔真卿に挑戦する「臨祭姪文稿」と共に一字書「楓」を発表。写真版では十分伝えられないが、「楓」の「几」の部分の大輪の花火を想起させる飛沫が効果的。
伊藤聡美は第5回抱一大作書展の中でも強く記憶に刻まれた「沈」、第50回記念抱一書展出品作に連なる「髪」、「狂瀾怒涛」の3点を発表。構成の巧みさが光る三作三様の作風の内に、表現者たる上での核となるもの。それがはっきりと読み取れた。
内野直弥の「臨風信帖」は、写真版では伝えきれないが会場を圧する大作。小品ながらセンスの光る「流」。「山山」は発想のおもしろさが、鍛えられた筆力でさらに生きる。
岡佑樹は、「臨蘭亭序」において、オーソドックスな学書の成果を示すが、金文による一字書「音」「明」においては、作家精神を前面に打ち出している。金文による「音」は独自の表情で観者の視線を捉え、重厚な響きを放つ「明」との好対照を為す。
佐藤達也の「臨寒切帖」に対しては、若くしてここまで王法に肉迫するとは、原典と対比しながらただ感嘆するのみ。
篠崎貴典の一行書「悪中之善」においては濃墨の筆力、「暗中模索」ではにじみの美しさと筆線の切れ味の調和を、「我舞影零乱」(李白詩「月下独酌」より)では淡墨の美しさと真正面から相対する。対幅「望廬山瀑布」(李白詩)では洒脱な対比の妙を、二行書「月下独酌」(李白詩)では行間の白が光る。
德田真奈美の「臨私擬治可議」。壁面の端から端に到る長大なスケールが観る者を圧倒する。膨大な字数を最後まで緊張感を途切らせることなく書ききる集中力も見事だ。二行書「緑雲高幾尺…」(夏目漱石詩)においても、潤渇肥痩の自在な展開の内に、凝縮された集中力を読み取ることができた。
伝西行とされる一連の古筆、中でも「山家心中集」のシャープな筆線のリズムは、昔も今も心が躍る。沼尾希望の「臨中務集」も、そうした伝西行の線質を実によく捉える。「臨関戸本古今集」では、技法の宝庫とも評される関戸のポイントを粘り強い伸びやかな筆線で巧みに掴み取る。
早川燿の「臨黄州寒食詩巻」は、不遇の境遇に置かれても己の信念を毅然と貫く蘇軾の不屈の闘志をよく伝える。淡墨のにじみが効果的なアクセントとなる「可意」(良寛詩)においても、その書線の根幹に蘇軾に学ぶ気骨が読み取れた。
「近頃の若い者は…」との嘆きは、有史以来今日まで絶えることなく受け継がれている。
還暦を過ぎた自分もそうした親父達の一人だが、本展を通して新たな時代の息吹を痛感すると共に、己の浅薄な思い込みを深く恥じる。主観的な思い込みで突進してきた我々団塊の世代に対し、現代の若者にはしなやかな感性の発露が大きな武器になっている。佐藤達也、そして「僕らの書展」の仲間たち…青春とは数多くの試行錯誤、挫折を繰り返す日々でもある。しかし必ず“日はまた昇る”。今後一層の活躍を切に祈る。
(書評論家 宗像克元 )